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江口きち

図書館講座「郷土にかがやくひとびと-昭 和 編-」 
群馬県立図書館編より抜粋転載。   
歌人江口きち略歴
大正2年(1913)-昭和13年(1938) 
上州武尊山の麓、利根郡川場村谷地に、父熊吉、母ユワの長女として出生。両親は共に他県の出身で、各地を放浪の果て川場に住み着いた。 流れ者の血筋の疎外感は、きちの厭世の一因ともいわれる。 兄弘寿は幼時の脳膜炎の後遺症で障害が残り、家族の心配の種であった。博徒の父は失踪を繰り返し、 飲食店「栃木屋」を一三兄妹を抱えて一人で切り盛りする母の苦労を見て、潔癖なきちは父を生涯憎悪する。孤独だが負けず嫌いで学業成績は優秀。小学校の担任田村晴子や林卓爾の影響を受け文学に目を開かれる。17歳で沼田に出て郵便局に勤めるが、僅か4ヵ月に母が脳溢血で急逝。家族を養うため家業を継ぐことになる。翌年、妹たきの将来を考え、東京の美容院へ修業に出す。 この頃から、 田村晴子の勧めで河井酔茗 ・ 島本久恵夫妻の主宰する文芸誌 「 女 性 時 代 」 誌 友 と な り 短歌 を発表。 双木恵、飯田章子や涼子の筆名で7年足らずの間に 1000余首の歌を作る。 店に出入りする年長の妻子ある男性 と 相 思 の 間 柄 になり苦悶するが、 母の死後、 きちの厭世は深まり、 25歳で兄 を 道 連 れに服毒自殺。 辞世の歌二首を便箋に書き残す。後に島本久恵等により遺稿集「武尊の麓」などが刊行されている。

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【図書】
上毛新聞社編 上毛新聞社 1979 K030 G94 ○ p.110 江口きち『群馬県百科事典』
江口きち『郷土歴史人物事典群馬』 萩原進著 第一法規 1978 K281.3 H14 ○ p.207
江口きち『上州の顔 歳時記』 〔東京新聞編〕 東京新聞前橋支局 1981 K281.3 ト1Z ○ p.220
江口きち『群馬県人名大事典』 〔上毛新聞社編〕 上毛新聞社 1982 K281.3 ト2Y ○ p.87-88
県民文化大学施設専門講座 平成3年度 群馬県立図書館〔編〕 群馬県立図書館『近代群馬の人々Part5』

K040 ト7X ('91) 10月16日 江口きち 原一雄
山田直次郎〔ほか〕著 みやま文庫 1963 K281.4 Ki46 (1) ○
『近世群馬の人々』 上毛偉人叢書 1p.24-47 江口きち 田島武夫
小滝和子〔著〕 群馬文化協会 1950 K281.4 Ko92 ○ p.75-105 江口きち『上毛女人』 上毛偉人叢書
萩原進著 いずみ書房 1960 K367 ツ0X ○『上州おんな風土記』
p.28-32 命を絶った二人の文学女性 江口きちに関する記述あり
正木四郎編 群馬県警察本部 1963 K281.4 Ma61 ○ p.467-475 薄命の歌人 江口きち『上毛人物めぐり』
岸大洞〔ほか〕共著 歴史図書社 1979 K285 テ94 ○『群馬人国記 利根・沼田・吾妻の巻』
p.114-117 江口きち
萩原進著 上毛新聞社 1968 K361 H14 (2) ○『上州人』 下
p.232-236 自殺 白痴の兄を殺し命断つ 死にひかれた江口きち
萩原進著 いずみ書房 1960 K367 ツ0X ○ p.28-33 江口きち関連の記述あり『上州おんな風土記』
松永伍一著 文化出版局 1982.12 702.1 ト26 ○『供華の旅 自死への花道』
p.23-41 歌人・江口きち 自死への花道
朝日新聞前橋支局編 煥乎堂 1969 K902 A82 ○『上州の文学紀行』
p.27-30 江口きち 生活を素直に歌う
樋口秀次郎著 相葉伸〔ほか〕編 みやま文庫 1971 K902 H56 2 ○『群 馬県の文 学碑 』(みやま 文庫44)
p.224 江口きち歌碑
新版 新上毛文学散歩編集委員会編 煥乎堂 1978 K902 J69 ○『上毛文学散歩』
p.187-201 江口きち 川端好子
おのちゅうこう著 上毛新聞社 1979 K902 テ95『わが群馬の文学者たち』
p.41-68 武尊嶺の歌人-江口きち
河井酔茗著 起山房 1943.3 K902 Ka93 p.345-347 きちと兵隊『酔茗随筆』
相葉有流監修 市川為雄監修 上毛新聞社 1979 K902 テ9X ○『群馬の文学碑』
p.170-171 江口きち
石田利夫編著 桶川 郷土研究室 1992 K902 ナ2Y『奥上州(利根・沼田・吾妻)の文学と味散歩入門』
p.4 江口きち歌碑写真 p.58 江口きちの歌碑
(みやま文庫135) 根岸謙之助編 みやま文庫 1994 K902 ナ47 ○『群馬県・昭和の文学』
p.158-177 自殺の社会学-江口きちと石田マツ-
利根沼田の文学碑調査委員会編 沼田エフエム放送 2001 K902 ニ14 ○『利根沼田の文学碑』
p.124-125 歌碑 江口きち
田島儀一著 〔伊勢崎〕 〔田島儀一〕 2003 K902 ニ34 ○『群馬の文学碑めぐり』
p.156-158 江口きち
島本久恵著 図書新聞社 1967.2 K902.8 E33 ツ72 ○『江口きちの生涯』 図書新聞双書
島本久恵著 みすず書房 1970 F SH38 テ09 ○『母の証言』p.1-5 序章、p.6-15 在る夫人に送る は、江口きちに関連する内容

島本久恵著 群馬県立図書館 1986.『武 尊の麓歌 碑由 来「大 法輪」昭和33年第25巻第2号~第6号』
12 K939 Sh38 ト6Z
江口きち著 矢島けい 1983.9 K956 E33 ト39

 

横瀬夜雨
明治11年)1月1日 - (昭和9年)2月14日)
来歴[編集]
茨城県真壁郡横根村(現・下妻市横根)の名家に生まれる。幼時、
くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。『文庫』に
民謡調の詩を発表し、1905年詩集『花守』を刊行して、浪漫的な
色彩で人気を博し、1907年河井酔茗主宰の詩草社に参加した。
地方の文学少女たちがその境遇への同情から夜雨の妻になると
言って数名やってきたことは、水上勉『筑波根物語』に詳しい。
なお、伊藤整『日本文壇史』にも同様の記述があるが、これは
連載終了後、単行本化されなかった水上の著を参考にしたもの。
その後結婚し、昭和期には幕末・明治初期の歴史について研究した。
「処寿(しょすみ)」の名も用いた。1934年、急性肺炎により下妻の
自宅で死去。56歳没。戒名は真如院文誉慈潤夜雨清居士。

    著書[編集]
    •    夕月 旭堂書肆 1899.12
    •    花守 隆文館 1905
    •    花守日記 本郷書院 1906
    •    二十八宿 金尾文淵堂 1907
    •    夜雨集 女子文壇社 1912
    •    死のよろこび 歌集 横瀬処寿 石蒜社、1915
    •    花守と二十八宿 婦女界社 1921
    •    明治初年の世相 新潮社 1927                            
    •    天狗騒ぎ 改造社 1928
    •    近世毒婦伝 軟派十二考 第2巻 文芸資料研究会編輯部 1928
    •    横瀬夜雨詩集 改造文庫 1929
    •    雪灯籠 梓書房 1929
    •    太政官時代 梓書房 1929
    •    太陽に近く 随筆 万里閣書房 1931
    •    雪あかり 書物展望社 1934
    •    史料維新の逸話 太政官時代 人物往来社 1968
    •    地主発生の一考察 茨城県農業史編さん会 1975.3 (農業史資料)
    •    横瀬夜雨童謡集 横瀬隆雄編 筑波書林 1995.7
    •    横瀬夜雨書簡集 河井醉茗宛 横瀬隆雄編 横瀬夜雨記念会 2009.8

    復刻[編集]
    •    天狗騒ぎ 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集 ; 歴史編)
    •    明治初年の世相 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集 ; 歴史編)
    •    太政官時代 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集 ; 歴史編)
    •    二十八宿 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    夜雨集 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    花守日記 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    雪燈籠 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    雪あかり 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    太陽に近く 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    夕月 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    花守 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    死のよろこび 歌集 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集)
    •    近世毒婦伝 崙書房 1974 (横瀬夜雨複刻全集 ; 歴史編)
    •    太政官時代 近代世相風俗誌集 3 クレス出版 2006.1
    •    明治初年の世相 近代世相風俗誌集 2 クレス出版 2006.1
    •    近世毒婦伝 精選社会風俗資料集 第6巻 クレス出版 2006.9


         やれだいこ

         花なるひとの
           こひしとて
         月に泣いたは
           夢なるもの

         たて綻びし
           ころも手に
         涙の痕の
           しるくとも
         うき世にあさき
           我なれば
         君もさのみは
           とがめじ

 

 
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伊良子清白

人 伊良子清白

鳥取県八上郡曳田村大字曳田(現・鳥取市河原町曳田)に、伊良子政治とツネの長男として出生。父政治は医師で、郡家町大門の医師だった岡田道叔の次男だが、明治8年7月に曳田村にいた伊良子春郊の長女つねと結婚し伊良子の姓を名乗った。母つねは、清白が生まれて満1歳にもならない明治11年に死去した。    
年京都府立医学校(現在は京都府立医科大学)卒業。東京日本赤十字病院に勤務する。
1906年に唯一の詩集『孔雀船』を刊行、浜田(島根県)、大分、台湾、京都を経て、大正11年三重県志摩郡鳥羽町小浜(現・鳥羽市小浜町)で医院開業した。鳥羽に定住以降は詩作を再開し、岩田準一の兄・宮瀬規矩が主宰する『白鳥』に短歌を投稿したほか同誌で指導者・選者を務めた。
昭和20年に戦火を避けるため三重県度会郡七保村打見(現・度会郡大紀町打見)に疎開。 昭和21年1月10日、同地で往診に向かう途中脳溢血で倒れ、別の医者の手当てを受けた後に戸板に乗せられ自宅へ運ばれている時に死去した。
昭和55年生地であり、名作「漂泊」の舞台である曳田の正法寺境内に、同作の第4連を山本嘉将が筆にした詩碑が建立された。

 

伊良子清白と河井酔茗の交わりは明治28年の春、清白が酔茗に会うため泉州堺まで訪ねて行ったときに始まる。

「北旅籠町の呉服屋、暖簾を潜ると薄暗い帳場に眼鏡をかけた痩せた人が出迎えてくれた」、その人が河井又平、若き日の酔茗である。「文庫の事、詩壇の事、国文学の事、言いたいことを言い、聞きたい事を聞いた。」その時酔茗23歳、清白19歳。清白は、その時の酔茗を「燃ゆるような若い心を市のほこりに埋めていらるる気の毒さを感じた」と記している。「酔茗は此の町と此の家を捨て早稲田の地に身を投ぜるまでのいきさつに随分苦労をなめられた」と清白が思い出を書いている。

 

昭和4年7月、酔茗は伊良子清白宅を訪ねている。酔茗を鳥羽湾巡りに案内したことを日記に記している。その時、次のような詩を描いている。

 

松のないしま飛鳥は

 浜ごうの花 はなざかり                                 

百合やなでしこ、

ひるがおの花、

人のたおらぬ花がさく、

磯は貝がら、浮木もまじる、

岩には豆の枝ぶりおかし

清いみぎわの潮の色は、

海の底まですき通る

 

 ふるさとの谷間の歌は
 続きつゝ断えつゝ哀し
 大空のこだまの音と
 地の底のうめきの声と
交りて調は深し
三重県鳥羽市小浜町城山
水底の泥を逆上げ
かきにごす海の病
そゝり立つ波の大鋸
げとこそ船をまつらめ

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内田茜江

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明治18年1月7日栃木県足利生れ。昭和20年8月15日歿。本名素一。別号薄月夜。雑誌「文庫」に俳句、短歌を投稿、明治35年からは新体詩を作る。<七五本位の文庫調で素朴淡彩、楚々たる情趣がある>(河井醉茗)その作品は、醉茗編「靑海波」に収載。晩年、回想記「明治文學逸話」を書いた。

蔵書家であり「文庫」全巻をコレクション、河井酔茗の蔵書収集に関わる。女性時代には「白秋氏初期の短歌」には「鳥羽に精白を訪ふ」を掲載。「文庫のことは茜江にきけ」と河井酔茗言うほどに詳しい。


                                                             錦木を植うるの歌

                                                         銀杏の落葉うちはらひ
                                                         土くれかへす鍬の刃に
                                                         ふるゝや石の音さびて
                                                         かへり花ちるむら蕗の

                                                         ひろ葉が面をすべり入り
                                                         掘りだす黒きつちにしも
                                                         蔭日向見るふゆ暮の
                                                         光のもさむく弱りたり

                                                         くぬぎぞ混じる楢林
                                                         蜘蛛ゐとざす蔭にして
                                                         苔をひらいて根こじた
                                                         真紅に實のる錦木や

                                                         虫や蝕みけん一葉一葉
                                                         はやくも秋に染めたるを
 

                                          「くさぶえ」掲載
                                 むら竹のをぐらきところ寒椿ひと花咲けり朝日なほいでず
                                 藁屑のかゝる橋杭みもと四もと露の中よりゐられにけり
島 木 赤 彦
                                    内田かおる
河井醉茗生誕50年に関して、塔影第180号1975年春号に「醉茗10年忌に」と題した島本久恵の一文が掲載されている。
一部略
生誕50年を詩壇の皆様で祝っていただいたのは、大正14年11月であった。その時島木赤彦さんが記念にと寄せられた歌。長いあいだ書簡の束にそのままであったのをあらためてひらいて見るのも今年の一層の感である。紙は原稿紙で、ペン書きで、

河井醉茗氏50歳に達せリと聞く。余も同年なり。即ち読みて河井氏に呈する5首、

行きゆきて五十路の坂もこえにけりついに寂しき道と思はむ
この道に寂しき光常にありて唄うたふ人を行かしめにけり
和泉なる堺の浦にわが君と水を浴みしは三十年の昔
海にして君がうかべに照りにける月の光は今も思はしむ
君は詩におのれは歌にわかれたる道なつかしく顧るかな
                      島 木 赤 彦 
人の志は永く、道もまた遥かであって、身命はみじかい。
いのちみじかし 青春の惜しみだけではないのであって、まことに残る心、
そのこころの去る時はないであろうわたくし、また当然それは濃く複数の
わたくしたちであることを、その熱い遺念と共に新たにする。
醉茗10年忌、つつしみて更に更に一層の鞭をおぼえる
                 (島本久恵)  

大正15年3月に島木赤彦が亡くなったのを思うと大正14年
11月に送られた歌は、感慨深いものがある。

和泉なる堺の浦にわが君と水を浴みしは三十年の昔
というのは、島木赤彦が明治30年8月北陸関西旅行のときのことで
伊良子清白を京都に訪ね、河井醉茗を堺に訪ねたことである。
島木赤彦全集月報第4号に「文庫」時代の氏の印象に書かれている。
その際つかわれた写真は、島木赤彦が伊良子清白に会ったさい渡した写真の複製であり、島木赤彦全集編纂の第二巻を作る際、昭和4年に伊良子清白が提供したものである。

島本邸には島木赤彦の自筆の大正14年の短歌 五首もあるようですね。
たからの山ですね。(必ず見つけ出して大切に保存したい。)







中山省三郎                                     常陽藝文より抜粋 榎本美恵子

ロシア文学翻訳家・詩人として (なかやませいざぶろう)
昭和4年早稲田大学文学部露文科卒業後ロシア文学の翻訳家として活動を始める。「世界童謡集」に童謡21編を訳出、「独習新露西亜語」ツルゲーネフの「散文詩」「猟人日記」、マルク・シャガールの「自叙伝」、ドストエフスキー、プーシキン等の作品を訳す。少年時代からロシア文学に憧れ特にツルゲーネフに魅かれていた。しかし当時の社会状況は不況のどん底で生活は楽ではなかった。一方旅することも好きで行く先々で情景や感懐を詩に詠んだ。生前の詩集には「羊城新鈔」、「豹紋蝶」、「縹緲」(ひょうびょう)がある。
下妻時代の省三郎
幼くして母を亡くし父に育てられたが継母が来るとほとんど祖父母に育てられる。病弱で進学を遅らせ、大正6年、現在の下妻第一高校に入学するが大正9年3月卒業近くに落第となる。その頃同じ村に住む横瀬夜雨に出会い文学に目覚め熱中する。大正10年には子供たちに児童自由詩や作文指導にあたる。「赤い鳥」に投稿し指導者としての名を知られるようになる。この活動ぶりを北原白秋に知られ期待されその後早稲田大学文学部露文科に進学する。ロシア人のブブノワ女史のロシア語の指導を受ける。その成果は卒業するや否や発揮し翻訳家,装丁、装本などにも手を広げた。
「文庫」の人々と交流、活躍した時代
15年戦争の頃であり文学の成り立ちにくい時代である。ましてロシア文学はなかなか相手にされない時世ではあるが翻訳の仕事を依頼されるようになる。昭和2年、結婚し家庭を持ち二人の娘さんにも恵まれる。昭和11年、河井酔茗、「黙移」出版記念会が虎ノ門晩翠軒で開かれ出席する。18年4月30日の中野の日本閣での「文庫会」にも出席、同郷の横瀬夜雨らとともに交流し、時局に左右されない独自の静謐で優しい詩を作った。

菜の花
蜜蜂よ
お前がどんなにあせつても
蜜は水より
なほ うすい
今年の春の
油菜の
あなたまかせのわりなさよ       詩集「水宿」より

省三郎は横瀬夜雨のもとへ通い文学的薫陶を受ける。夜雨の遺稿集「雪あかり」の編集をする。夜雨が上京すると歩行不可能な夜雨を背負ったりしてお世話をし省三郎宅にも泊まったという。近くには内田茜江宅がありよく行き来し交流を深めていた。友人、知人の出版にも尽力すること多く短い生涯の中で大きな位置を占めていた。昭和22年5月30日、阿佐ヶ谷の自宅にて43歳の若さで永眠する。河井酔茗は6月1日弔問している。

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